dino.vcサイトは、もちろん、パソコンでも見える。あまり意識しないでスマホサイトを作成できるのがdino.vcだと思う。
岩美町からの発信ということをテーマに岩が美しいと書く町岩美町に生まれてというタイトルでdino.vcサイトを作ってみた。
これから、ここで、岩美町をテーマに発信していこうと思う。

情報という幻想

最近どこかに書いたことだが、人はイメージすることによって行動が生れる動物である。人は、ニンゲンという生き物はあらゆる生命体の中でもっとも理知的で論理的だと思い込んでいる。たしかに頭脳があり、高度な知能はあるが、それと同時にイメージに左右されるということでは、他の生命体に引けを取らない。私は幼い頃、暗闇にお化けを見て、恐怖に震えた記憶がある。実在しないものをイメージして思いこむ人々は現代の大人の中にもたくさんいるような気がする。(決して脱法ハーブとかではなく、正常な人々の中にこそ。)

情報には、日々流れて消えていく「フロー情報」と、人々の記憶に留まり、繰り返し読み返される「ストック情報」とがある。人々はフロー情報は、あいまいなもの、ストック情報は、意味のあるものという幻想を抱く。特に活字として印刷され、著名人が認めたものは、より重要な意味を持つものとして認識される。多くの人々は、それらのストック情報によってイメージを膨らませ、同時にその情報を確かなものとして再認識する。その結果、やがて情報という幻想に支配されてしまう。

イメージを持つことは重要である。しかし、そこに情報という幻想が潜んでいないかということを見直すべきである。たとえば「あの人は怖い人。」という幻想がもしあったとする。それは、どうやって作られたのかを思い描いてみてほしい。かつて「冷戦」と言われた時代があった。当時堂々と「敵国ソ連」という活字を見る機会もあった。「ソビエト連邦の人々は怖い。」という幻想を多くの日本人が持っていたし、現代の日本には、「イスラムの人々は憎しみ合っている。」とか、「北朝鮮の人々は貧しい。」というような幻想がある。すべて情報が作りだした幻想である。

情報の幻想に支配されないためには、どうしたらいいのだろう。それは、自分自身で情報を吟味することから始まると思う。人を信じないということではない。むしろ、耳を傾け、より多くの情報から、確かなものを選り分けていくことが現代では必要とされるのだと思う。

日本酒とヨーグルト、醗酵というプロセスでは、似たようなものですから、合わないわけはない。などと心の中で独り言。誰も真似しないでしょうけど。お酒は南部杜氏の「あさ開」、ヨーグルトは、明治プロピオヨーグルトLG21です。あえて写真は撮りません。想像してください。悪くないですよ。一人で飲むから、いいんでしょうけど。好きな飲み方ができる、家飲みの醍醐味です。

お酒は毎日ではないです。最近は早く寝ることが多いので、たまに深夜、起きているときに飲みます。今やらなければならないことが、たぶんあると思います。「やらなければならない。」とは思ってないんですが。どうせならゆっくり味わいたい。お酒は大好きです。

最近ね。大人の国語って必要なんじゃないかなって思ってます。人前で話すスピーチ講座とか、営業をやる方の話し方講座なんてものも世間にはありますが、そういうのじゃなくて、一般の人の日常の会話の基礎になる国語力。自分自身がそれはずっと必要だって思っていたことなので、他人に必要だとは思っていなかったところもあるんだけど、実は今の日本人に一番欠けているのは、日本語、国語なんじゃないかって。ちゃんと自分を分析できて、何をやりたいのかを話せる大人がもしかしたら、かなり減っているんじゃないか。本当に小学校や、中学校でやっているはずの国語を大人ができていない。だから世間的には頭がいいと思われている人でも、詭弁やとんでもない自己主張がまかり通ってしまう。政治や事件を見てると、そう思うんですね。

今、情報発信のあり方というのを考えています。その行為そのものが文化になると思うんですね。今は、インターネットがあって、ツールがたくさんある。ブログがあったり、ツイッター、フェイスブックがある。その中で表現の方法は、画像はずいぶん広まりましたが、文章や音声としての言葉はどうなんだろう。いっとき、2000年の手前くらいに、パソコン通信があって、ホームページを作るのが始まった頃には、文章をみんながたくさん書いていたと思うし、それなりの研究もされたと思うんだけど、その時代はそんなに長くは続かなかった。

まず、自分がその日本語を磨こうと思います。いつも、少しずつですが。

意思表示として

日本は戦争をする国になるんでしょうか。
国外から見たら、急速にそういう国になりつつあると見られていると思っていいでしょうか。
私は、反対です。

難しい理屈がどうこうというより、そういうふうに見られるというのは、いいことではありません。
そして、本当に戦争になって、そこに加わることを必然的に求められる状況が生まれるとしても、そこに私は行かないし、子どもたちを送り出すことはできません。

戦争を拒否する人は軍法会議にかけることもありえるというようなことを言っていた大臣がいました。このことは、これから日本にとんでもない状況が生まれることがあるということを示唆しています。彼の発言の罪をこそ、糺してください。とても国政を預かる人のことばとは思えません。

まだ間に合います。今、その議論の場にいる方々にお願いです。真の平和とは何か、戦うことに意味があることかどうかを政党を超えて一人一人の意志で真剣に考えてください。

個人レッスンを勧めると、「個人レッスンなんてとんでもない。」そう言われることは、実はよくあることです。

どんなジャンルでも、個人レッスンを受けるという事は、ほとんどの方にとって未体験であることが多いだろうし、ハードルが高いと感じることもあると思います。まずグループでレッスンを受けたり、教室で講座を受講してみましょう。個人レッスンというのは、マンツーマンですから、受ける方にとっては、異性であれば「恥ずかしい。」ということもあるでしょう。それでもグループや教室にないメリットが大きいと感じられるのが個人レッスンなのです。

一人一人目標とすることは、もちろん共通する部分もたくさんあります。しかし、内容や、ペース配分は、個人によってさまざまです。グループや教室では、細かく内容を精査する時間はありません。期限が決まっている場合には、カリキュラムに沿ってどんどん進んでいきます。個人レッスンの場合には、繰り返しが多く用いられます。復習をする場面で同時に次の新しい事を学べるのが個人レッスンです。生徒さんから「何度も同じことを聞いてすみません。」と言われることもたまにあります。何度も同じことをやっていいのが個人レッスンです。常に繰り返しの場面があり、一方では同じように見えることの中に、新しい発見があり、それ自体がステップアップにつながるのです。

本物を間近で感じることも大きなメリットです。先生は無名であっても、本物であることが必要です。あなたから見て、圧倒的な技量を感じる方であれば、その方が先生にふさわしいと言えるでしょう。そういう先生を見付けられたなら、個人レッスンを受けることはあなた自身のステップアップになるはずです。