人は、目標を立て、その目標に向かって段階を経て歩むということをする。

そうすることが正しいことなのだと教えられるし、そう考える人は多い。

でも、本当にそれがいつも正しいことなのだろうか。

カレーライスを作ろうとして、シチューになってしまうことがある。

それは、間違ったことなのか、どうか。

途中から、意図してステーキを作ってしまうことがある。

もしかしたら、そうこうしているうちに、レストランのオーナーになってしまう人もいるかも知れない。

あるいは、食べやすいスプーンを作りたくて、金属加工の職人になる人もいるかも知れない。

そう考えると、明確な目標や、目的を最初に描くことの意味は、単なるきっかけに過ぎないことになる。

そして、目標・目的から違うものになる確率は案外多い。

今、目の前にある「ビジョン」を大切にして、つなげていくことのほうが、意味がありはしないだろうか。

その過程で、目標や目的に縛られて、捨てるべきものを捨てられないとしたら、どうなるだろうか。

目標や目的に固執した結果、その目標に到達せず、何も得られないで終わる。

もちろん、そういう場面を誰もが経験する。

一度、目標や目的を忘れてみて、本当にやりたいことを見つめることは必要だろう。

それでも、揺るぎない目標や目的なら、必ずやり遂げられることだろう。

科学的、物理的な「空間」という場合、特に説明はいらない。容積に応じた各辺の距離であり、広さ、大きさをいう。
それに対して、私には、感性が受け取る「人が持つ空間」を感じることがある。
物理的な空間とは関係なく、広がりや深みを感じる。それが何なのかはわからない。
ただ、物理的な空間も、人が持つ空間も、実は現実か仮想かの違いであって、同じ脳細胞が感じているのだろうと思う。
そうならば、この小さな仕切りで区切られた空間も、宇宙も、人の存在も同じなのだと思う。

いつも「あれをしなくちゃ、まだあれができていない。」と“何となく”考えている。時々、そう考えるのをやめてみようと思う。

案外「何もしない。」という時間を、ふだん持てていないことに気付かされる。「次はあれをして、これをして・・・。」と考えながら、目の前の行動に追いたてられて何か別のことをやっている。

なぜか。

たぶん何かしないでは済まされない場所にいることが原因のひとつだろう。

子どもの頃、目の前に教科書があると、ノートの空白のあるページのことが気になったりした。他の人たちが楽しそうに遊んでいると、本当はただぼうっとしていたいだけなのに、飛びこんでゆけないことを悔やんで自分を責めることがあった。

いつからか、おとなになってもいつも何かに追いたてられて、ひとつひとつ成果を残すことが大事なことだと思い込んでいた。成果を残すとほめられたし、自信につながってどんどんいろんなことができる気がした。本当は、ただ生きることだけがすべてなのに。

「何かをしよう。」と考えないで、そのまま、自然にできることをやる。その方がずっと楽しく、ステキなことができるだろう。